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長崎地方裁判所佐世保支部 昭和55年(ワ)178号 判決 1983年9月26日

原告

吉永真人

右法定代理人親権者父

吉永健三

同母

吉永和恵

右訴訟代理人

加藤達夫

山出和幸

森元龍治

水上正博

羽田野節夫

被告

祐野淳

右訴訟代理人

苑田美穀

清川明

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金三、〇九七万七、三八二円及び内金二、八九七万七、三八二円に対する昭和五五年三月二〇日から、内金二〇〇万円に対する同年一一月一日から各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告は、肩書住所地において祐野外科胃腸科医院(以下「被告医院」という。)を経営し、医療行為を行う医師である。

2  医療事故の経緯等

(一) 原告は、昭和五五年一月二二日午後九時ころ、自宅において、ガラス障子に顔面から衝突して顔面を負傷した。

(二) 同日午後九時四〇分ころ、原告代理人母吉永和恵は、原告の祖母吉永マスと共に原告を連れて被告病院に赴き、被告と、原告の負傷を治療する旨の準委任契約を締結した。

(三) 被告は、直ちに原告を診察し、右眼下のU字型の八センチメートルの切創、鼻梁部の二センチメートルの切創をそれぞれ縫合したが、右眼については、右下眼瞼皮下溢血、球血膜充血を認めたものの、眼球に他に負傷はないものと判断して原告の母及び祖母にその旨述べ、何ら治療はしなかつた。

(四) その後、原告は、同年二月八日まで、一一回にわたり被告医院に通院したが、被告は主に右切創について治療をなしたものの、右眼については何ら治療はしなかつた。

その間、原告の母及び祖母は、被告に、原告の右眼の充血がひかないことから、再三右眼についての治療の安否を問うたが、被告は時がたてば直ると述べるのみであつた。

(五) ところが、同年二月一八日、原告が佐世保市春日町所在菅眼科医院にて菅一男医師の診察を受け、更に同月二五日、佐世保市立総合病院眼科にて診察を受けたところ、原告の右眼は既に失明していた。

同年三月一一日、原告は長崎大学医学部付属病院において手術を受けたところ、原告の右眼には四分の一象限に及ぶ強膜穿孔、外傷性虹彩炎、強膜破裂疑、硝子体出血等が認められ、回復は不可能な状態となつていた。また、原告の容貌には、右眼眼球萎縮による変化が生ずるに至つた。

3  責任原因

原告の受傷部位は、右眼下部、鼻上部という、いわゆる眼瞼周辺部であり、前記のとおり原告の母及び祖母から再三眼の治療の要否を問われていたことからして、被告は、眼球の損傷を予見し、または予見しうべきものであつたから、精密検査をなし、仮に自らそれをなすことができないときは眼科専門医院等に転医させる等の配慮をなすべき義務があつたのに、被告はこれを怠つたものである。

したがつて、被告は、右債務不履行または過失により生じた原告の損害を賠償する責任がある。

4  因果関係

(一) 失明

原告は、受傷直後に現代医学の水準に照らして十分な眼科専門医の治療を受けていれば、右眼失明は免れることができたのに、被告の前記債務不履行または過失により、原告は適切な治療の時期を失し、失明するに至つた。

(二) 眼球変形による容貌の変化

仮に原告の右眼失明が免れえないものであつたとしても、原告が受傷直後に眼科専門医の治療を受けていれば、眼球保存のための手術を受けることにより、眼球変形を防ぐことができ、少なくとも早期の眼球変形を防ぐことができたのに、被告の前記債務不履行または過失により、原告は著しく早期に眼球萎縮による容貌の変化を来たすに至つた。

5  損害

(一) 失明による損害

原告は、一眼を失明したもので自動車損害賠償保障法施行令第二条の後遺障害等級労働能力喪失率によれば、第八級第一号に該当し、その労働能力喪失は一〇〇分の四五である。

(1) 逸失利益 金二三九七万七三八二円

(2) 後遺症慰藉料 金五〇〇万円

(二) 精神的損害

仮に右(一)が認められないにしても、原告は、次のとおりの精神的損害を受けたので、これに対する慰藉料は金五〇〇万円が相当である。

(1) 前記4(二)記載のとおり、眼球萎縮による容貌の変化を呈するに至つたこと、またはこれが著しく早期に到来したことによる精神的損害

(2) 原告が、現代の医学水準に照らし、適切な治療を受けることを期待していたのに、これが裏切られたことによる精神的損害

(三) 弁護士報酬

原告は、本件訴訟を原告代理人弁護士に委任するに際し請求金額の約一割(右(一)記載の損害については金二〇〇万円)を報酬として支払う旨約した。

6  よつて、原告は、被告に対し、債務不履行または不法行為による損害賠償請求権に基づき、金三、〇九七万七、三八二円及び内金二、八九七万七、三八二円に対する症状固定の日である昭和五五年三月二〇日から、内金二〇〇万円(弁護士費用相当額)に対する本訴状送達の翌日である同年一一月一日から各支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。<以下、省略>

理由

一請求原因1、2(一)、(二)、(五)の事実、同2(三)の事実中、被告が原告を診察し、右眼下のU字形の八センチメートルの切創、鼻梁部の二センチメートルの切創をそれぞれ縫合し、右眼については、右下眼瞼皮下溢血、球血膜充血を認めたこと、同2(四)の事実中、原告が少なくとも昭和五五年二月一日まで被告医院に通院し、切創部についての治療を受けたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

右争いのない事実に、<証拠>を総合すると次の事実が認められ<る。>

1  原告は、昭和五五年一月二二日午後九時ころ、肩書住所地において、ガラス障子に顔面から衝突し、四分の一象限に及ぶ右眼強膜穿孔(但し、後記のとおり、右傷害が発見されたのは後日に至つてからであつた。)、右眼下頬部にU字形の八センチメートルの切創及び鼻梁部に二センチメートルの切創を負つた。

2  丁度原告の父は仕事で帰りが遅くなつて右受傷の頃留守であつたため、原告の母は外科医の診療を受けさせるべくかねて知つていた市内小西外科へ電話したところ医師不在のためことわられ、長崎労災病院へ電話したところ宿直医師が内科であるためことわられたが、急患であることを考慮して消防署を紹介されたので消防署に電話して被告病院を教えてもらい、電話で一応の診療の了解をとつた。他方、消防署も被告に原告の救急診療を依頼した。

そこで、原告の母は、原告の祖母と共に原告に付添つて、同日午後九時四〇分ころ、被告医院に赴き、被告に原告の右受傷部位の治療を依頼し、被告はこれを承諾した。

被告は、原告がガラス障子に衝突して負傷したことを知り、ガラス破片が入つていたりガラスで切つたりしていることを慮つて原告の右眼を肉眼で見える範囲、すなわち、角膜及びその周辺の球膜、その下の強膜の一部を診察した。その結果瞼結膜皮下溢血、球結膜充血を認めたが、他に異常は認めなかつたので、他に格別の検査はせず顔面の右眼下頬部及び鼻梁部の切創を消毒のうえ縫合し、右眼に眼帯をはめさせて当日の治療を終えた。その際付添つて治療に立ち会つていた祖母は顔面の傷のみならず眼も気にかかつていたので、眼は大丈夫かと尋ねたら被告は右の肉眼による診療の結果にもとづいて大丈夫と思うが奥部はわからないから何かあつたら眼科医に行くようにとの趣旨の勧告をした。

3  その後、原告は、両親または祖母が付添つて、同月二三日から同年二月一日までの間、同年一月二七日(日曜日)を除く毎日、引続き被告医院に通院し、同年二月一日に前記切創の治療はほぼ終了した。その間一、二度被告は付添人から眼の充血について気がかりな旨訴えられたが右同旨の言をくり返し、特に二月一日には眼については眼科医の診察を受けるようすすめた。原告の右眼充血がなお継続していたため、同月八日、原告は父に付添われて被告医院を訪れた。その際、被告は、原告の右眼発赤は認めたものの、前記自己の肉眼による診断の結果をもとに自然に治癒するものと判断し、前記同旨の返答をして原告に対する治療を終えた。

4  その後も原告の右眼充血は治癒しなかつたので、同月一八日、原告は、佐世保市春日町所在の菅眼科にて菅医師の診察を受けたところ、原告の右眼には前房、硝子体に内出血が認められ、視力は無い状態にあると診断された。菅医師は、さらに経過を観察したが、同月二五日には瞳孔が偏位し、右下球結膜膨隆が認められたため、強膜穿孔を疑い、佐世保市立総合病院に転医するよう勧めた。

5  同日、原告は、佐世保市立総合病院にて、原医師の診察を受けた。原医師が顕微鏡による観察CT検査等により診察したところ、原告の右眼には強膜穿孔、前房・硝子体出血が認められ、強膜の穿孔創は既に閉鎖しており、原告の右眼は失明状態にあり、また、右眼の萎縮が始まつていることも明らかとなつた。原医師は、原告の右眼失明の回復は不可能であり、交感性眼炎のおそれもないものと認め、手術は不要と判断した。

6  同月二六日、原告は、更に長崎県北松浦郡田平町所在の石橋眼科にて受診したが、右以上の格別の所見は得られず、交感性眼炎の予防と眼球内異物の有無確認のため、長崎大学医学部付属病院で受診することを勧められた。

7  同月二七日、原告は長崎大学医学部付属病院にて診断を受けたところ、左眼は異常なく、右眼の視力は測定不能であつたが、外傷性虹彩炎、強膜破裂の疑い、硝子体出血が認められた。そこで、同年三月三日、原告は同病院に入院し、同月一一日、交感性眼炎の予防及び眼球内異物確認のため手術を受けたところ、原告の右眼下鼻側には四分の一象限に及ぶ強膜穿孔創が認められたが、これに下直筋が嵌頓したまま自然治癒しており、他に創はなく、硝子体、ブドウ膜の脱出はなく、異物も認められなかつたため、格別の処置もなさずに手術は終了した。手術後も前房出血は持続し、硝子体出血もあつて眼底は透視不能であり、諸検査の結果水晶体破のう、白内障も認められた。同月二〇日、原告は、右眼視力ゼロ、眼球破裂と診断されて退院した。

その後、同年五月八日、原告は前房出血により同病院に再入院したが、しだいに角膜染血症となり、同月三一日退院した。

8  原告は、現在右眼につき眼球萎縮の症状があらわれ、これによる容貌上の変化が生ずるに至つている。

二責任原因について

1  原告は、被告において、原告の右眼眼球の損傷の有無を確認するため精密検査をなすべき義務があつたのにこれを怠つた旨主張する。

被告は、肉眼で原告の右眼の表面を観察したのみであつて、それ以上の格別の検査をしなかつたことは前記認定のとおりであるけれども、<証拠>によれば被告は、外科、胃腸科を主として専門とする個人開業医であつて、眼科の専門医ではなく、眼球の損傷について精密検査をなしうるだけの器具、設備等を有していたわけでもないことが認められ、前記認定のとおり、眼科専門医である菅医師においても同年二月一八日の時点では、原告の右眼強膜穿孔は確認しておらず、同月二五日に至つてこれを疑つたにすぎないのであり、同日、佐世保市立総合病院眼科の原医師が、顕微鏡によりようやくこれを発見するに至つたことからしても、原告の右眼強膜穿孔は、被告において容易に検査のうえ発見しうるものではなかつたものと認められるのであるから、被告において、原告の強膜穿孔を発見しうる程度の精密検査を実施すべき義務があつたものということはできない。したがつて、この点についての原告の主張は採用できない。

2  次に、原告は、被告において原告を眼科専門医院等に転医させる等の配慮をなすべき義務があるのにこれを怠つた旨主張する。

この点について、以上認定の事実にもとづいて、次のとおり判断する。

原告の父母も前記一月二二日の当初の診療は救急診療として依頼し、被告もまたその趣旨においてこれを承諾したものであるから、その際被告は外科医ではあるが診療事故である前記の原告の受傷に対し考えられるあらゆる応急措置を講ずべき責任を負担しており、その義務は眼科の範囲に属する診療も含まれるものと解すべきである。しかし、その専門外の眼科の範囲に属する部分を含む救急診療の義務は本件の場合は、夜間救急であるので、翌朝の午前九時頃各病院が診療を開始する時点(この点は公知の事実である)をもつて解除されるべきものといわなければならない。そこで、右一月二二日の夜一〇時頃の診療開始時点から翌朝の右診療義務解除の時点までになした被告の眼科の範囲に属する診療行為が救急診療として適切であつたか否かについて検討するに、被告は前記認定のとおり右眼を肉眼で見える範囲を診察し、その結果、ガラスの破片が残存しないこと、ガラスによる傷がないことを確認し、瞼結膜皮下溢血、球結膜充血を認めたのみで他に異常を認めないと診断を下したうえ、特段の眼に対する治療又は専門の他医への診療依頼をなさなかつたのであるから、この時点においては、外科医としての眼科の範囲に属する部分の救急診療としては適切であつたといわなければならない。

次に、被告は原告の父母の依頼により右救急診療に引き続き顔面の前記創傷の診療を継続し、この点の治療義務は履行し終えて原告の父母においても異議のないところであるが、付随的に原告の父母又はその代理人たる祖母の質問に対し眼について前記認定のとおりに答えて付言したことが、救急診療の余後的配慮義務としての診療義務を履行したことになるかという点が問われるべきである。前記のとおり、原告の父母は被告の専門が外科であつて眼科でないことは十分に承知しており、外科医に眼の診断、治療を期待するべきでないことは通常の社会人の常識に属することであるから、被告が専門外の医師としてなした救急診療の際の診断にもとづいて前記のような返答をし、続いて、眼については眼科の診断を受けるよう勧めたということは前認定のとおりであるから、これをもつて右診療義務を履行したものというべきである。

三因果関係について

責任原因が否定された本件においてもはや因果関係の存否について検討する必要はないが、明白な点であるから判断を試みると少なくとも失明との間の因果関係はこれを認めるに足りる証拠はない。かえつて、<証拠>によれば、原告の右眼強膜穿孔は重大なものであり、その部位及び程度からして、受傷直後に適切な治療を施しても、失明を免れえなかつたことが認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

四結論<省略>

(東孝行 伊藤新一郎 髙野伸)

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